岐阜市にある建築鉄骨製造所の敷地内に、岐阜金華山ロープウェーの3代目搬器が保存されている。
JR岐阜駅前から岐阜バスの岐阜女子大線に乗り約40分、終点の岐阜女子大で下車すると、大学の敷地の横に平行に並ぶように、梅村建工株式会社の広い敷地がある。到着すると、同社社長である梅村憲さんが出迎えてくださり、さっそくロープウェーがある場所まで案内してくれた。そこは「うめさんパーク」と名付けられ、一般に開放されたスペースで、パターゴルフやドッグランなども用意されている。
これが金華山ロープウェーの3代目の搬器で、1968年から1986年まで18年間使用された。金華山では2代目以降から、腰板部分も窓であるスケルトンタイプになり、視界が開けた大きい窓の傾向は現在の6代目まで引き継がれている。
近畿車輛製で32人乗り。ボロボロだった車輛を、梅村社長が自社の工場で手直しをして、金華山ロープウェーで資料を調べて、当時の塗装を再現したのである。1号車が「長良川」2号車が「金華山」の愛称があり、これは「金華山」の方である。
この切り文字のなんて魅力的なことか。フォントが素晴らしく、昭和の観光地の楽しい雰囲気が伝わってくる。
昭和の搬器に多かった、角が丸いパノラミックウィンドーや、ヘッドライト、ホームの溝に入るときに横揺れを抑えるバンパーなど、最近の鋭角なデザインにはないかわいげとやさしさを感じる。
自由に内部に入ることもできる。内装はオリジナルの雰囲気を残すために、あえてあまり手を加えなかったそうだ。
最近の外国製の搬器は内張をしないのも多いので、このように天井からの角の丸みが昭和レトロでなぜか和む。
引退したこの搬器は、その後、畜産センターというところで展示保存されていたことが、この説明文からでもわかる。
内部のいたるところに、当時の活気や歓声が聞こえてきそうな面影が点在していて夢がひろがる。
この方が社長の梅村憲さん。なぜこのように古いロープウェーを保存しようと思ったのか伺ってみた。事の始まりは、仕事の取引関係で旧知の仲だった(有)大晃機電の社長の林隆行さんが、会社の敷地内に古い搬器2台を放置してあるのを目にして、一台譲ってほしいとお願いしたそうである。これを綺麗に手直しをして、工場の一角に設置して一般に開放したら、本来あまり一般人が寄り付かない工場に親しみを持ってもらえるかもという考えがあったそうだ。2018年10月から修復作業を開始して、2019年3月に「うめさんパーク」という憩いの場を設け、搬器を設置したそうである。
自分がしばらく見学した後に「それじゃもう一台の長良川号を見に行きましょう」と、梅村さんが自動車で5分ぐらいのところまで連れて行ってくださいました。
こちらが林隆行さんの会社敷地内に置かれた1号車の「長良川」です。こちらも綺麗に塗装し直されていました。扉は破損していたそうで、わざわざ作り直したとのこと。
こちらの切り文字もいい感じです。
林さんは中にテーブルとイスを置き、テラスのように活用しておりました。腰板部分は曇ったアクリルを使用していました。
向かって左側が長良川号オーナーの林隆行さん、右側が梅村憲さんです。林さんは以前から金華山ロープウェーと仕事のやり取りをしているそうで、その関係からか、畜産センターから搬器2台を譲り受けたようです。その後、物置小屋にしたり、一時期は鶏のケージ替わりにしていた事もあるそうで、傷みはかなり進んでいたようです。。梅村さんが「一台俺にくれ!」と交渉すると「いいけど何にするの?」と林さん。その後、修復された金華山号は、マスコミからも注目されるようになり、その価値に気づいた林さんも、長良川号を手直しして、このようになった次第だそうです。
引退したロープウェーの搬器は、鉄道車輛のように博物館で保存されたりすることは滅多になく、たいがいスクラップにされたり、無造作に放置され朽ち果てていくのが現状なので、こんな恵まれた状況で保存されることは本当に喜ばしいことである。長い間捨てずに保存しておいた林さん、それを蘇らせるアイディアを浮かび実行した梅村さん、このお二人がいたおかげで、幻のロープウェーをこの目で見ることができました。